22歳で、人生は決まらない。


東京大学院生時代に小布施へ。組織づくりや事業創出を仕事にする大宮さんに、軽やかな決断と挑戦のコツを伺った。


大宮透さん(1988年11月8日生まれ)

東京大学大学院工学系研究科修了(都市工学修士)。2013年より長野県小布施町に移住し、地域づくりの仕事を始める。小布施町外でも、ファシリテーターや、新しいプロジェクト構想のコーディネーター、大学の非常勤講師などを務める。2019年からは小布施町内のプロジェクトに仕事を絞り、町の10年後を見据えたビジョンや事業づくりに奔走中。

大宮さんは多方面でご活躍されていて、メディアにもたくさん出ていらっしゃいますが、いつもどのようにご自身のお仕事を説明されていますか?

わかりにくいですよね...(笑)自己紹介するときは、ファシリテーターやコーディネーター、政策コンサルタントを名乗ることが多いです。


政策コンサルタントってどんなお仕事なんですか?

一般的には、行政の政策課題についての調査・研究を行ったり、事業や施策を提案する人のことを指すと思います。ただ、政策の提案だけをして実行段階では行政に丸投げしてしまうコンサル仕事が多く、現場では絵に書いた餅になっている場合も少なくないです。

僕自身は、提案するだけではなく実行まで一緒にやりたいと思ってしまう人間なので、職員のみなさんと一緒に政策課題を議論する場のファシリテーションから始まって、事業実施のコーディネートまでしています。そういうことをやっているうちに、いろいろな場所でファシリテーターやコーディネーター的な仕事をやらせていただくようにもなった、という感じですね。


なるほど、そうなんですね。今はどのような案件に関わっていらっしゃるんですか?

ひとつは、小布施町の非常勤職員という立場で、「町の課題を主体的に見つけて、色々な人たちに関わっていただきながら、その課題を解決するプロジェクトを立案する」仕事をしています。その一方で、民間に近い立場の仕事もしていて。

そうなんですね。

2016年に『一般社団法人 小布施まちイノベーションHUB』という組織を地域のまちづくりに関わる皆さんと立ち上げたのですが、ここでは観光やエネルギー政策のような、地域課題の解決につながりつつ、収益化も目指せる取り組みを進めています。


まさに官民連携ですね。そもそも大宮さんはいつごろから「まちづくりや公共政策に関わりたい」という気持ちを持っていらしたんですか?

自分の原体験的なものは、高校生の頃ですね。僕は群馬県高崎市育ちで、高校時代にバンド活動に熱中していた時期があったんですが、それがきっかけでライブハウスのオーナーだったり、街で事業を営む方だったり、少し年上の魅力的な大人と出会う機会が増えて。そういう人たちが、ローカルのラジオ番組の企画をやらせてくれたり、本当にいろいろなチャンスを与えてくれて。高崎の街中が、自分たちの溜まり場だったんですよね。


素敵ですね。

だから「街に育ててもらった」みたいな感覚がすごく強くて。公共政策とまではいかないけれど、そういう機会をいただく中で、「街をおもしろい場所にする」みたいなことには、高校時代から興味があったのかなと思います。

なるほど。

でも大学生になって上京してからは、地元に帰るたびに高校の頃に通っていた路面店が少しずつなくなっていって。人と人が有機的につながる場が減っていくのを見たときに、「都市や人にとっての幸せって何なんだろう?」みたいなことを考えるようになったんです。そこから都市計画とか公共政策みたいな、まち・ひと・仕事につながる学問領域に興味を持ち始めた感じですね。あとはやっぱり、震災の影響は大きかったと思います。


2011年の東日本大震災ですか?

はい。ちょうど大学を卒業し、大学院に進学する直前にあの震災が起きて。都市計画を学ぶ学生だったので、被害調査などで震災直後から東北の太平洋沿岸地域に通いはじめました。大学院時代の前半は、ほとんど東北と東京を行ったりきたりの生活でしたね。


東北では、どんな活動をされていたんですか?

いろいろな活動に関わりましたが、一番思い入れが強かったのは、陸前高田市で関わった『りくカフェ』というプロジェクトですね。地元の方と一緒に、被災した方々の居場所をつくる取り組みだったんですが、建築家や企業、地域住民の方々など色々な人を繋いでひとつのプロジェクトをつくる、まさに今仕事でやっているようなコーディネーターとしての役割の一端を、そこではじめて経験したんですよね。

そうだったんですね。

『りくカフェ』は企画から半年くらいで仮設の店舗が完成して、本設店舗に移転した今も地域の拠点として根付いていて。いろいろな人が同じ目標を描き力を合わせることで、長く続いていくような取り組みがすごいスピードで実現する。そういう経験がとても印象的で、「自分はこういう道で仕事をしたいんじゃないか」って思うようになったんですよね。


なるほど。

ただ、地域を拠点に色々なリソースを繋いでマネジメントする、みたいな役割が、どうやって仕事になるのかその当時はよくわからなくて...。そんなときにたまたま誘ってもらったのが小布施町のプロジェクトだったんです。


小布施若者会議ですか?

そうそう。実は、小布施町には大学3年生だった2009年に一度来ていたんです。当時、日米学生会議という国際交流プログラムに参加していたのですが、たまたまその開催地のひとつが小布施町で。

そのときのご縁から、「日米学生会議のような場を小布施町で自主的に作りたい。手伝って欲しい。」というお誘いを町長からいただいて。ちょうど人生に迷っていたし、お手伝いくらいならと思って、修論は一旦置いておいて(笑)地元群馬での活動も模索しながら、2012年の春から小布施町に通い始めたんです。

色々なご縁で、小布施町につながったんですね。 その後はどんな風に小布施町との関わりが強くなっていったんですか?

2012年の9月に、当時一緒に取り組んでいたチームのみんなと第1回の小布施若者会議の開催になんとかこぎつけたんですが、僕も含めて企画運営メンバーは全員が学生で、やっぱりその後も継続して関わるのってすごく難しかったんですよね。でも、こういう大きなイベントって、やった後がとても大事だと思うんです。イベントで盛り上がった波をどう次につなげていくのか。そういうことに自分は興味を持ったんですよね。


なるほど。

それで、ある種の使命感というか役割を担ってしまった、みたいな感覚もあって。自分としても、複数の地域に中途半端に関わるよりも、思い切って小布施町に拠点を移して活動した方が、いい経験になるんじゃないかと思っていたときに、町長からもお誘いをもらって。きっと町長もそんなに本気じゃなかったと思うんですけど(笑)それでなんかもう、決めちゃったんですよね。だから、実は大学院を卒業しないまま、2013年に小布施町に来ちゃったんです。


えっ、そうなんですか?

そうなんです(笑)もう、今考えれば勢いですよね。その当時は、小布施町で精一杯活動して自分なりに満足できる結果を生み出せたら、また大学院に戻ったり、地元の群馬でまちづくりをしたい、みたいな思いもあって。だから色々な選択肢を自分の中に残しながら「まずは2年間頑張ろう」「小布施で仕事しながら大学院は修了しよう」と決めて、小布施町に移ってきました。

そこから2年経って、小布施町に残る決断に至ったのはどうしてなんですか?

シンプルに言うと、2年では何も変えられないことに気づいたからですかね。ちょっとしたイベント的なことや表面的なムーブメントは、1年くらいでそれなりの形をつくれたりする。でも、自分としては、課題の本質に切り込みたい、地域にとって必要な変化に貢献したい、という思いがあって。小布施町でそれができないんだったら、他の自治体でもできないだろうなという思いもありました。


なるほど。私は、何かを選択するときに、他の選択肢を捨てる感覚が強くて…。2年とはいえ、ファーストキャリアで見知らぬ地域に根を張るのは、大きな決断だと思うのですが、どうして決断できたんでしょう?

周りの人にもすごく大きな決断をしたように言われましたね。でも、当時の僕自身は全くそんな気持ちはなくて、すごく軽やかに決断したというか…。


軽やか、ですか(笑)

人生長いし、紆余曲折でいいじゃない、という感覚で(笑)今はもっと強く、そう思います。


本当ですか?

うん。なんか22、3歳のときって、社会に出るそのときの決断が一生を決めてしまうみたいな感覚があるじゃないですか。

あります、あります。

僕も、当時はそういう感覚がきっとあったと思うんです。でも、「まずは2年」って決めることで、ダメだったら戻ろう、いろいろな選択肢があるじゃないかってすーっと腹に落ちて決められた。30歳くらいまでに人生の大きな方向性が見えていれば万々歳じゃないか、と。陸前高田での経験から、1年でも2年でも自分が目的意識を持って全力で挑めば、自ずとその先に世界が開けていくだろうという感覚もあって。逆に「石の上にも3年」みたいな感覚にこだわっていたら、そんなに軽やかには決断できていなかったかもしれません。


なるほど。その挑戦は、大宮さんが学生時代に色々なことに挑戦して、選択肢を増やしてこられたからこそできたことなんですかね…?

たしかに色々なことをやってみて、ひとつじゃない選択肢を持っているということは、すごく大事なことだと思います。

でも僕自身は、色々なことをやりすぎる傾向があって、そうすると、やっぱりひとつひとつが中途半端になっていくんですよね。だから広げる時期と狭める時期が必要だなと思っています。僕が小布施町に来る決断をしたときは、ちょうど狭めることの必要性を感じていた時期だったと思うんです。学生時代に活動を広げていたときの経験値を総動員して、狭めた選択に対して一度自分の戦力を集中してみよう、みたいな。

なるほど。

でも不思議なもので、小布施に移るっていう決断をしたことで、仕事の領域が狭まるどころか、その後いろいろな機会をいただいて、どんどん世界が広がった部分もあって。よくも悪くも、狭めるはずが逆に選択肢が広がっていく6年間になった。

そういう意味では、22,23歳のときに、何かを選ぶことで「自分の人生が決まってしまう」と思っていたのは大きな間違いで、選ぶことで逆に選択肢や人生の可能性って広がっていく部分もあるんだな、と今は思っています。


面白いですね。そんな中で、大宮さんは今後どんな選択をしていこうと思っていますか?

今30歳なのですが、この歳になってようやく自分自身がやりたいこと、得意なことがわかってきた感覚があって。それに、小布施町も日本の行政も、今が大きな時代の転換点にあると感じています。だからこそ、ここから小布施町での仕事にもっともっとこだわりたいなと思っているんです。取り組むべき現実の社会課題が高い解像度で見えている今だからこそ、小布施町の行政課題の解決に、自分の持てる資源や時間をとことん使っていきたい。小布施という小さい町から、地域の課題に根ざした先進的な取り組みをどんどん形にしていきたい。これからどういうキャリアになるにしても、今それを決めて突き抜けることが、今後の自分の人生にも必ず活きてくると思っています。

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